食と廃棄物に関する引用と雑感です。何かのヒントになることを期待して寄せ集めてみたいと思います。
◎ 「カラーひよことコーヒー豆」 小川洋子著 (小学館)2010/02/11
ほぼ同世代の著者の驚きに共感です。田舎に住み「カラーひよこ」には無縁でしたが。
【P30】
「昨日の残りものなんだけど・・・・・・」
と言ってC子さんは、茹でたうどんを細かく刻み、それにキャベツと豚肉とネギを混ぜ、卵で和えてフライパンで焼いた。見ているこちらの気分がよくなるような手際よさだった。それはお好み焼きともチヂミとも違う、魔法のように美味しい料理だった。
【P64】
大根に限らず、カボチャ二分の一個、もやし一袋、豚のコマ切れ百グラム、豆腐一丁等々、冷蔵庫の中味のありとあらゆる材料を無駄にせず、きちんと使い切りながら新たな食品を買い足してゆく。日々三食をこしらえてゆく。これは並大抵の仕事ではない。更に料理の味を追い求めてゆけば、これは果てしない探求の道となるだろう。
【P65】
皆家に帰って、台所に立ち、愛する人のため、今日一日頑張った自分のために、料理を作るのだ。偉大な自分の能力を、一皿の美味しい料理のために捧げるのだ。この喜びを知らないでいては、人として生まれてきた甲斐がないではないか。
◎ 「道元禅師に学ぶ人生 典座教訓をよむ」 青山俊菫著 (NHK出版)
先日、永平寺にお参りしてきました。読み始めてから何ヶ月も経過していますが、ゆっくり読もうと思います。
【P146】
直接料理の上でいうならば、食べる人の立場になって包丁の入れ方や味つけや煮方や盛りつけ方を変えてゆかねばなりませんし、御馳走になる方も、料理してくださった方の立場になって、熱いものは熱いうちにいただき、器もなるべく汚さないようにきれいにいただいてお返しするというように心を運ぶのが「這頭(しゃとう)より那頭(なとう)を看了し、那頭より這頭を看了す」というお言葉の心ではないでしょうか。
◎ 「おしゃべりな映画館 2 」 淀川長治・杉浦孝昭 (マドラ出版)
デンマークの映画「バベットの晩餐会」(原作者 アイザック・ディネーセン)に関する対談の淀川さんの言葉です。私も原作本とLDを買いました。
【P107】
ごちそうの映画はずいぶん見たけど、うずらの頭まできれいに食べるなんていうのは初めて見たな、カリカリッて音をたてて。ごちそうだけど、きっと食べることを神様が許してくれる。ここまで食べられてこのうずら、きっと成仏するだろうな、そんな感じなの。
【P110】
人間の粋さ、好きなことに賭けるエネルギー、そんなことを描きながら、どことなく芸術趣味も香ってる。しつこいようだけど、デンマークの映画だけに、本当に感心したね。
◎ 「オジサンにも言わせろNPO」 玉村豊男著 (東京書籍)
「料理の四面体」の著者にして、画家、ワイナリーのオーナー、テレビのコメンテーターでもある著者の言葉です。
【P99】
豆腐は古くなったらパックから出して、別の容器に新しい水を満たしてそこに移せばさらに生き延びる。鶏肉は、匂ってきたら表面を流水でよく洗うと寿命が延びる(このことは焼き鳥屋で働いていた友人から教わった)。刺身は、消費期限をそろそろ過ぎようとするものをわが家では「玄界灘(限界だな)の魚」と呼んでいる。
【P102】
便利になった生活の中で、冬は暖房を入れるので腐らないものが腐るようになり、夏は冷房を効かせるうえに冷蔵庫も進歩したので腐るものが腐らなくなり、さらに添加物が大量に加えられることによって、食べものの寿命は過去の経験だけからではわからないほど複雑な要素が絡み合うものになってしまった。
消費期限や賞味期限の表示は、そうしたもろもろの積み重ねの上に存在しているのだ。
◎ 「勝間和代の日本を変えよう」 勝間和代著 (毎日新聞社)
アメリカの成長の裏側は、「病的なまでの大量消費型資本主義」で、「ばかみたいに資源を使」っており、アメリカ人が太る理由について、次のように記載しています。
【P222】
なぜ太るかはとても簡単で、どこに行っても食べ物が2人前くらい出てくるためです。以前、研修でミネソタに1週間ぐらい行ったときも、食料の無駄遣いを強く感じました。研修なので、朝・昼・晩、ホテルの料理が出るのですが、その上に、おやつが午前、午後に出ます。・・・毎日、毎日、出されているおやつの半分以上は捨てているのではないでしょうか。なぜそんな無駄なことをしているのか地元の人に聞きましたら、食べきれないくらいのおやつを出さないと、そのホテルをファシリテーション(企業活性化のためのミーティング)の会議室として選んでもらえないからだそうです。・・・
NYでは、こんなに食べきれないから、ふだんはどうするのかと現地の人に聞きました。やっぱり彼らも、レストランに行くときにはドギーバッグで、はじめから半分取り分けてもらって持ち帰り、翌日食べるとかするそうです。そういう自衛はしているようですけれども、それなら最初からなぜ、半分で出さないかと不思議に思います。たぶん、半分しか出さないと、競争に負けてしまうからでしょう。
◎ 「銀しゃり」 山本一力著 (小学館)
この本から、食品ロスを無くすためには、こんな考え方もあると教えられたので、そのさわりをご紹介します。
【P237】
たとえ一合といえども、炊いた鮨飯を無駄にはしたくないからだ。
『売れ残りを出すよりは、売り切れ御免を詫びることをとれ』
新吉は親方から、商いのあり方をこう仕込まれた。
「宵越しのできない鮨が売れ残りそうになると、さばくために安売りを始める。一度でもそれをやると、客のなかには投売りが始まるまで待つ者が出てくる」
丹精をこめて拵えた鮨を投売りしたら、ふたつの可哀そうなものを生み出してしまうというのが、親方の口ぐせだった。
「言い値で買ってくれたお客と、投売りされる鮨。どっちにも、申し開きができねえ」
【P243】
仕舞い屋とは、食べ物の売れ残りを買い集める稼業である。安値で仕入れた品を竹皮に包み直して、人足たちに売り歩く。
江戸には十軒を超える仕舞い屋があると言われており、多くは日本橋に近い住吉町に集まっていた。
◎ 「読むので思う」 荒川洋治著 (幻戯書房)
福井県出身の著者の、ごみについての“意外な”考察をご紹介します。
【P9】
「多くても見苦しくないのは、文車の上の書物、ごみ捨て場のごみ」(原文は「多くて見苦しからぬは、文車の文、塵塚の塵」)
たしかに本箱に本が多くても、見苦しいとは感じない。むしろ愛らしい感じさえする。本を楽しみ、本とつながるその人の心の世界が感じとれるからだろうか。ごみも、同様に人の活動をすなおに示す、表す。そう考えると、見苦しいものではない。「徒然草」の目はすごいな、古典はたいせつだとあらためて思う。
◎ 「法食同輪」
曹洞宗大本山・永平寺では「法食同輪」という考えのもと、仏道修行と同じくらい食事を大切な修行ととらえているそうです。
http://info.pref.fukui.jp/hanbai/syunfile/syun18/isan_01.htm(福井県販売開拓課)
雲水の使う食器を「応量器」というそうですが、マイ箸、マイカップの理想型のようです。